色んなことを考えるんだけど、それを冷静に分析する一個上視点の俺がいるけど。
そいつって、小さい頃からずっと変わってない気がするよなー。みたいな。
そいつに対して、劣等感がずっとあるよなーみたいな。
だけど、ちょっと気づいたのが、俺が絶対できないと思ってたことを、
メタ自己がクリアしたら、メタ自己は変わらないけど、メタ自己に対して、納得感は出てくるんじゃないかな。っという。
例えば、「街に歩いてる骨格から美人な女性を口説ける。」ってことが絶対不可能だと、今まで思ってきたけど、
それに取り組んで、クリアした時に、今まで自分の思考を操ってた、メタ自己に対して、
「お前すげーな!」って納得感が出てくるんじゃないかな。って気はしなくもない。
それが自己肯定感みたいな感じなんかな?
ふと思ったのが、
苫米地英人とか、小室直樹とかが、同じ本を何回も読めって言ってる。
苫米地英人は、アダムスミスみたいな大著者、古典の本を、3回でも、4回、5回でも読め。
そうすると、著者の人格が、自分の中にできてくる。
みたいなこと言う。
小室直樹も、「良い本は最低10回は読め。いつまでもバカなのはだからだ。」って言ってる。
もっと言えば、
小室「100回読め。」
ぐらいまで言ってる。
これらの発言が、何となく良いこと言ってるし、今の俺に響くなーって直感で思ってたんだけど、何でかなーってのが、
たぶん、メタ自己に効いてくる読書の仕方かもしれん。って気がしてきた。精神の深い層に効いてくるというか。
読書の仕方考察
読書のやり方によって、どこに効いてくるかが、変わってくるな。筋トレと一緒で。
良い本を、何回も読むのは、精神の深い層に刺さるトレーニングなんかもな。
とは言いつつ、今の俺にとっては、負荷がデカすぎるトレーニングできついなとも、悩んでた。
で、ここまでの記事と関連するんだけど、
漠然と「良い本10回、100回読まないと!」「アンナカレーニナ100回読まないと!」って焦ってたけど、これは長期的な目標で良いな。って気がしたわ。
今は俺は、人生的に罪と罰期というか、精神の深い層の課題はまだ、一旦保留の時期かなという。
とりあえず、「フランス革命のナポレオンになりたい!」「ペルソナ5の佐倉双葉みたいな引きこもって世界的なハッカーになりたい!」的な欲求に向き合ってて良い時期だなって気がしてるから。
「良い本を100回読む」は、
たぶん、そういう時期の読書法、トレーニング法としては、違うかもな。
まあ、3回から10回ぐらい読んで良いけど。
なので、アンナカレーニナ100回はとりあえず保留。せめて3回読んで、
源氏物語に入ろう。
単純に源氏物語読みたい。
そんで、ファッション勉強して、って流れやな。
今は、罪と罰期的な欲求に向き合ってればおk